天皇制特集号廃棄事件

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天皇制特集号廃棄事件(てんのうせいとくしゅうごうはいきじけん)、『思想の科学』事件(しそうのかがくじけん)は、1961年12月に、中央公論社が、同社を版元として同月25日に発売予定だった第4次『思想の科学』1962年1月号(天皇制特集号)の発売を直前に中止し、冊子を裁断処分した事件。1961年2月に起きた『嶋中事件』の余波で、右翼団体による批判や攻撃を警戒した措置だったが、思想の科学研究会関係者や都留重人から「言論の自由」の侵害として批判を受けた。事件を契機に思想の科学研究会は中央公論社と訣別し、井村寿二の支援を受けて思想の科学社を設立、裁断された天皇制特集号を第5次『思想の科学』復刊第1号として刊行した。

背景[編集]

雑誌『中央公論』1960年12月号に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』は、実名をあげて、皇族を貶めるような扱いや、皇族が首を切られる場面があることが批判され、雑誌編集長が右翼団体へ出向いて謝罪し、翌1961年1月号の『中央公論』誌上に編集長名でお詫びの社告を掲載するなどしていたが、1961年2月に右翼団体構成員の少年が中央公論社社長・嶋中鵬二宅を襲撃し、お手伝いの女性と夫人が死傷する事件が起きた(嶋中事件[1]

事件後、中央公論社を版元としていた雑誌『思想の科学』は、同社からの要請で、編集内容を思想の科学研究会内で任命される編集員が企画して、研究会員から選出される編集長が責任を負い、中央公論社の派遣する社員は編集の事務のみに携わることになった[2]

事件[編集]

1961年8月に思想の科学研究会の編集委員・斎藤真は「天皇制特集号」の企画を立て、編集長の市井三郎は中央公論社の編集局長に企画を伝えて承諾を得ていた[2]

同年12月頃、中央公論社の幹部会は、同月25日に発売予定となっていた『思想の科学』1962年1月号(天皇制特集号)の販売中止を決め、刷り上がっていた冊子を裁断処分にした[3]

同月26日に思想の科学研究会は評議員会を開き、経緯の報告を受けて、これまでの協力と援助に感謝しつつ、中央公論社と訣別して独力で『思想の科学』の刊行を続ける方向性を決めた[4]

当時、一橋大学の教授だった都留重人は、執筆を担当していた『朝日新聞』の「論壇時評」(1962年1月22日)で、嶋中事件の犯人の公判が行われていることを理由としたらしい中央公論社の廃棄処分と、その処分を了承した思想の科学研究会を、「思想の自由は、ひとつの減点を記録した」と批判した[5]

思想の科学研究会の周辺からは、中央公論社との訣別・独立を決定した経緯について批判・反対論があり、同会は、1962年2月25日に臨時集会を開いて「『天皇制特集号』発行拒否事件は、単なる出版刊行の問題ではなく、『言論の自由』についての原理原則の問題である」との認識で一致したことを確認した(しかし、中央公論社に対して抗議し、刊行を求めるなどの措置はとらなかった)。[6]

  • 1962年2月に、同会会員だった藤田省三は『日本読書新聞』に「“自由からの逃亡”批判」(正続)を寄稿して、総会や拡大評議員会を開催せずに研究会の決定が行われたことを批判した。
  • 会員外から「天皇制特集号」に寄稿していた福田歓一は、発売延期と断裁処分の違いを問題にした。

思想の科学社設立[編集]

その後、都留は鶴見俊輔に連絡して井村寿二から資金を借りるよう促し、自身が井村から借りていた銀座の事務所を『思想の科学』の事務所として無償で貸し付けた[7]

1962年3月30日に、裁断処分された「天皇制特集号」を復刻し、内容を増補した雑誌が、思想の科学社を版元とし、第5次『思想の科学』の復刊1号(4月号)「特集 天皇制」として刊行された。実売率は97%だった。[8]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 中村智子『「風流夢譚」事件以後 - 編集者の自分史』田畑書店、1976年、JPNO 74001583

脚注[編集]

参考文献[編集]