DQNの川流れ

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DQNの川流れ

DQNの川流れ(どきゅんのかわながれ)とは、玄倉川水難事故(くろくらがわすいなんじこ)のこと。1999年8月14日神奈川県山北町で発生した水難事故である。

事故概要

DQNの川流れ

1999年8月13日より玄倉川中州キャンプをしていた横浜市内の廃棄物処理業者・富士繁の男性社員、子供6人を含むその家族、さらに社員の婚約者・女友達を含む18人が、翌日の熱帯低気圧の大雨による増水によって流され、社員5名と妻2名、1歳から9歳の子供4名、社員が連れてきた女性2名の13名が死亡した。

事故現場の地理的条件

酒匂川水系に属する玄倉川は、標高1672メートルの丹沢山地最高峰蛭ヶ岳檜洞丸塔ノ岳など急峻な山を水源とする。丹沢山地は、登山口が小田急沿線ということもあって登山者が多いが、湘南海岸など相模湾からの湿った暖かい空気を高い標高で引き受けることから、季を除いて降水量の多い山地である。

特に玄倉ダム付近から上流はゴルジュ状の地形が連続しており、ユーシン渓谷など難しい沢登りのコースが多数あることで登山者に知られている。すなわち、玄倉川はひとたび豪雨となれば急激に水位を増す、危険な渓谷といえる。玄倉ダムもゴルジュを堰き止めるかたちで建設された。遭難現場は砂防用に造られた立間堰堤上流の、水流が湾曲する地点に広がった堆砂地で、堰堤より2メートル高かった。冒頭に掲げられた現場の写真にみるように、キャンプの適地にみえるが、植生がみられないことからわかるように、豪雨の際は水没する地点だった。

事故発生時の気象状況

1999年の夏は、平年では日本の東海上の北緯30度付近にある太平洋高気圧の中心が40度付近にまで北上した。この結果、東日本猛暑四国九州曇りや雨模様が続く「東高西低」の気象となり、8月上旬の札幌での平均最高気温那覇を上回るという異常気象だった。また、通常では珍しい北緯20度以北での熱帯低気圧の発生が多数みられ、台風に発達するエネルギーは得られないものの、日本列島に頻繁に接近・上陸して不安定な天気をもたらした。7月23日には長崎県諫早市で1時間に100mmを超える記録的な集中豪雨が観測され、市内全域に避難勧告が出されたほか、事故3日前の8月11日にも近畿地方で約1700棟が浸水する被害が出るなど、各地で水害が生じていた。

この玄倉川水難事故の原因となった大雨をもたらした熱帯低気圧も、8月13日に東海地方合で発生したものである。この熱帯低気圧は、勢力は弱かったが濃い雨雲を伴っていた。さらにオホーツク海で発達した高気圧に押されて速度が遅くなったため、東北地方から九州地方にかけての各地に局地的豪雨をもたらした。14日には関東南岸へ、さらに15日には本州を縦断して能登半島付近へと進んだが、とくに雨雲が発達した関東地方では、所により1時間に30~50mmの強い雨になった。たとえば埼玉県秩父大滝村では13日の降り始めから14日夜までの雨量が420mmを超えたほか、神奈川県相模原市相模湖町などでも300mmを超えた。事故現場近くにある丹沢湖アメダスには、事故前日13日の20時ごろから1時間当たり10mmを超える大雨が断続的に降り続いていたことが記録されている。増水が著しくなった8時までの総雨量は114mm。とくに救助活動が開始された10時には、1時間に38mmという土砂降りとなっていた。雨があがるまでの累計雨量は、最終的には29時間で349mmが記録されている。ただし事故現場周辺は、上記のような地理的条件から恒常的に雨量の多い地点で、この値自体はとくに珍しいものでない。

ちなみに、13日17時22分に毎日新聞が速報した気象情報は次のような内容だった。「気象庁が13日夕発表した大雨に関する情報によると、東海地方の沖合を移動中の熱帯低気圧の影響で、東日本各地や東北地方では、同日夜遅くにかけて局地的に1時間に50mm程度の激しい雨が降り、東北地方では14日にかけて大雨となる恐れがある。14日夕までに予想される雨量は、いずれも多い所で▽東北地方100~150mm▽関東・東海・北陸70~100mm」。常識的には山岳や渓流が危険と判断すべき内容で、予報の結果はほぼ正確か、それ以上の大雨だった。遭難者たちがラジオなどを持参していたのか、あるいは事前に気象情報に注意を払っていたのかは不明である。

玄倉ダム放流操作について

DQNの川流れ

玄倉ダムの諸元は次の通りである。

このダムは下流にある水力発電所への発電用水を取水するために設けられている。河川法第44条1項におけるダムの基準、「高さ15.0m以上」の規定より50cm低いのでダムとしては扱われず、として扱われる。また、この玄倉ダムは一般的に想像されるダムのような水を溜め込んで洪水を防いだりするようなダムではなく、貯水容量が極めて小規模な取水堰である。

このような小規模な発電用ダム・堰の場合、増水時には速やかなゲートの開放が要求される。洪水調節を目的に持つダムの場合は、予め雨季の前に貯水池の水位を下げ、洪水が起きても貯水池に水を蓄える機能を持っている。だが、玄倉ダムの場合は洪水調節機能を持たないばかりか、貯水池自体も極めて容量が小さいため、洪水が起これば空の状態から数時間も待たずに満水となる。事故当時、流入量は毎秒100m3であったとされ、流入量と貯水容量の比から満水までの時間を算出すると、仮に貯水池が空であったとしてもわずか約7分程度で満水となる計算となる。従って事故当時はこれより短い時間で満水になったことが推測される。

事故当時ダムの操作に対する疑問も呈されたが、仮にゲートを開けなければゲート上もしくはダム堤体上を洪水が越流する(堤体越流)。このことは、ダム自体が決壊する危険性をも意味し、そもそもこれは洪水調整機能を持つダムにおいてただし書き操作を行うことと全く同じであり、ダム流入水量と放流水量が同量で、洪水調整機能を果たさない状態である。さらにダムの下流には大規模な多目的ダムである三保ダム丹沢湖)があり、最悪の場合三保ダムの堤体にも重大な影響を与える可能性がある。三保ダムは粘土で河川を堰き止めるロックフィルダムであり、堤体越流に弱い。三保ダムは洪水調節機能を有するため貯水池である丹沢湖には余裕があったものの、万が一堤体越流が起こった場合、ダム決壊という最悪の事故につながる。仮に決壊となれば、下流の小田原市を始め、深刻な人的被害が想定された。管理者側はこうした危険を回避するため、玄倉ダムゲートを全開にしたとしている。

神奈川県警の要請によりダムの放流が一時的にストップしているが、これは1968年8月18日岐阜県で発生した飛騨川バス転落事故において、要請を受けた中部電力発電用取水堰であった上麻生ダム飛騨川)の放流を断続的に停止したという前例がある。だがこれは本来のダム操作規定に沿ったものではなく、人道上の理由から行われた措置である。

事故の経過

1999年8月13日
  • 15時ごろ 降水がはじまる。当時隆盛しつつあった「オートキャンプ・ブーム」に加え、ペルセウス座流星群の極大、さらにお盆休みの時期にあたり、遭難した横浜市内の一行を含め、玄倉川ではこの日、キャンプ指定地外の六ヵ所に50張り程度のテントが張られていた。彼らにとっては、現地は勝手を知った地点であったと思われるが、上流の地形への認識や、気象の基本的知識があったかどうかは不明である。
  • 15時20分ごろ 玄倉ダムの職員がハンドマイクで観光客に警告し、退避を促したところ、大部分の観光客はこの警告に従って退去した。せっかく確保した幕営地からテント、炊事用具、寝具など資材を撤収することは、早朝に到着して行ったさまざまな作業が無駄になることを意味し、一般的には面倒なことである。しかし、管理者の指示に従い、雨が降るなど天候が急変した折には中州を含む河川敷から離れて安全を確保することは、キャンプや登山等を行う者には常識とされていることである。
  • 16時50分 神奈川県内全域に大雨洪水注意報が発令される。
  • 19時ごろ 一行25人のうち4人は日帰り参加のため、幕営地を離れて帰宅した。
  • 19時45分ごろ 雨足が激しくなり、事故現場の5km上流の玄倉ダムが放流のサイレンを鳴らす。
  • 19時50分ごろ 玄倉ダム職員が一行に直接警告するが、拒否される。
  • 20時05分 警告を拒否された玄倉ダム管理事務所は、警察官からも警告をしてもらうため、松田警察署に通報した。
  • 20時20分 玄倉ダムが放流を開始。
  • 21時10分 ダム職員と警察官が再度警告。一行のうち、比較的年齢の高い社員とその妻ら3名が指示に応じて中州を離れ、自動車に退避する。この際、彼らは他の仲間も誘ったが拒否された。この時点で、遭難した18人以外は、他のグループも含めてすべて中州から退避していた。
  • 22時30分ごろ 警察官が3度目の警告を行うが、非常に消極的・拒否的な反応に遭う。やむなく、万一の場合は車が置かれた左岸ではなく、岸は断崖になっているものの河床が高い右岸側の斜面に速やかに逃げるように指示して退去した。
1999年8月14日
  • 5時35分 降雨はいよいよ激しくなり、神奈川全域に大雨洪水警報が発令された。
  • 6時ごろ 前夜に撤収したメンバーが、川を渡ってテントに残っている仲間に退去を呼びかけるが、泥酔の末の就寝中なのか反応なし。まだ水流は膝下ぐらいの深さで、なんとか渡渉可能だった。
  • 6時35分 豪雨による増水にともない、貯水機能のない玄倉ダムは本格的に放流を開始した。
  • 7時30分ごろ 警察官が巡回し、テントまで2メートル付近まで近づく。退避を呼びかけるが、熟睡中なのか無視を決め込んだのか反応がなく退去する。
  • 8時04分 熱帯低気圧の接近で、いよいよ本格的な暴風雨となり、前夜に岸に避難した社員から消防に119番通報で救助要請が入る。
  • 8時30分ごろ すぐ下流の立間堰堤の水深が普段より85cm高い1m程度となり、中州も水没する。膝越し以上の水位の渡渉は、通常の流れであってもザイルがないと大人でも危険であり、なおかつ増水して急流となっており、自力での退避はもはや不可能となった。岸からの距離は80メートルほどになっていた。すでにテントは流され、中洲で野営した横浜市内の一行はパニック状態になった。
  • 9時07分 足柄上消防組合の本部から救助隊5人が通報を受けて現場に到着。渡渉による救助を試みるが、激しい水流のため断念する。もともとリバー・レスキューの要員は配置されておらず、またお盆の土曜日で、組合本部は12人、2つの分署に各5人の当直体制だった。約20人に増えたのは流失直前の11時半だった。一方、松田警察署も当直体制にあり、まず6人を送り、徐々に増員することとなった。
  • 10時ごろ レスキュー隊員11名のうち2名が断崖伝いに対岸に到着。放送局テレビカメラも現地に到着し、取材を開始する。
  • 10時10分  救助ヘリコプターの出動が要請されるが、熱帯低気圧による強風と、複雑な谷あいに低く垂れた濃雲のため二次災害が懸念され、却下された。ちなみに、報道用のヘリコプターも当日は現場に近づけず、上空からの映像は皆無である。このような状況下でヘリを飛ばすという行為は乱気流及び視程不良によって墜落という二次災害が発生しかねないという状況は火を見るより明らかであった。また、ハシゴ車による救出も、路肩が弱く安定が維持できないため不可能であり、ロープによる救出以外に方法はなかった。
  • 10時30分ごろよりレスキュー隊が対岸に救命発射銃で救助用リードロープの発射を試みるが、対岸の樹木に引っ掛かってしまった。15分後に再びロープが発射されるが、一射目のロープが絡まり、また水圧と流木に妨げられてメインロープが遭難者に届かなかった。すでにテントは流され、3本のビーチ・パラソルの支柱を中心に、男性たちが上流側で踏ん張って水流をやわらげようとし、中央部に女性や子供が寄り添って雨風を避け、下流側で乳幼児を抱いた男性がたたずんでいる様子が、テレビで速報される。
  • 11時ごろ 玄倉ダムが警察からの要請を受け放流中止。しかし玄倉ダムは発電用ダムで貯水能力に乏しいため、すぐに満水となり、崩壊の危機に直面。やむなく崩壊防止のために放流再開。
  • 11時38分 水深が2m近くになる。水位はみるみる胸にまで達し、救援隊や報道関係者の見守る前で、あっという間に18人全員が濁流に流された。1歳の甥を抱いていた伯父がとっさに子供を岸に向って放り投げ、別グループのキャンプ客が危険を顧みず救い上げる。この子供の父親と姉を含む大人3名、子供1名も対岸に流れ着く。しかし、残りの13名はすぐ下流の立間堰堤から流れ落ち、以後は姿が確認できなくなる。
  • 12時14分 現地本部が設置される。数名が泳いでいるとの誤情報に応じ、下流の丹沢湖では大雨のもとでボートによる捜索が開始された。
  • 17時 神奈川県は自衛隊にも出動を要請。
1999年8月15日
  • 9時ごろ 警察消防自衛隊の救助チームが対岸に流れ着いて夜を過ごした4名を救助。
  • 午後 丹沢湖で2遺体発見。翌日より盆休みを返上し、警察・消防・自衛隊は340人体制で捜索開始。大雨でダムまで流れ出した流木など浮遊物が多く、捜索は困難をきわめた。また、地元自治体や近隣住民も捜索活動を支援したほか、飲料水需要の確保を目的に建設された三保ダムは捜索協力のため、丹沢湖貯水の大量放水を実施した。その後の天候次第では、小田原市などへの水道水供給に大きく影響した可能性もあった。
1999年8月29日
  • 自衛隊による捜索活動打ち切りの直前になって、最後まで行方不明だった1歳児の遺体が発見される。これで13名全員の遺体が丹沢湖から収容された。

反響

この水難事故においては、キャンプ客が水に流される瞬間がテレビで中継されたため、世間に大きな衝撃を与えた。この事故を契機に国土交通省では「危険が内在する河川の自然性を踏まえた河川利用及び安全確保のあり方に関する研究会」が開かれた。神奈川県をはじめとする各自治体においても同様の河川の利用と安全に関する議論が行なわれた。

また、富士繁社員たちが悪天候にもかかわらず中州で野営という無謀な行動をとったうえ(そもそもキャンプなどにおいて、中州や河川沿岸に設営することは、一般的にはやってはならないこととして挙げられる行為である)、何度も繰り返されたダム職員や警察官の警告を拒絶し続けたことから、富士繁社員たちの自己責任を問う意見が多く出るなど、悲惨な結果となったにもかかわらず強い非難が向けられた。

なお、救助や捜索に要した費用のうち、地元自治体である山北町が負担した額は4800万円である。神奈川県警察が要した費用は、同日、道志川で発生した別件の水難事故1件との合算だが、人件費だけで1億円にのぼった。これらの費用はすべて公費負担された。

一方、より強い退去措置が取れなかったのかという反省とともに、救助チームの装備や訓練の不備を指摘する意見もあがった。事実、事故発生時現場を管轄していた足柄上消防組合消防本部は、十分な救助体制をとれるような組織規模を有していなかった。この事故を教訓とし、隣接の南足柄市消防本部と組織を統合、2000年4月1日足柄消防組合消防本部が発足する。

この事故が発生するまで、気象庁は中心付近の最大風速が17.2m/s以下の熱帯低気圧を「弱い熱帯低気圧」と呼び、また台風の強さを「弱い」「並の強さ」「強い」「非常に強い」「猛烈な」の5段階で、台風の大きさを「ごく小さい」「小型」「中型」「大型」「超大型」の5段階で表現していた。しかし「弱い」「小型」といった表現では、「大した影響が無い、小雨程度」と誤解される可能性があり、防災上好ましくないということになった。そのため気象庁は2000年6月1日より「弱い熱帯低気圧」を単に「熱帯低気圧」と変え、台風の強さの「弱い」「並の強さ」、台風の大きさの「ごく小さい」「小型」「中型」の表現を廃止した。

関連項目